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夏休み、親子で“正解のない問い”を話すー親子で思考力を高める「哲学対話」が人気

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子どもにとっては長い夏休み。思い出作りの中に、たった10分、親子の会話を取り入れてみるのはどうだろう? 今、注目されている「哲学対話」とは?

長期休暇中の親子の過ごし方に関する課題は、多くの家庭にとって身近なものだ。
レジャー、学習、スポーツ、習い事──選択肢は増えているが、どれも“何をするか”に重点が置かれがちで、「どんな会話をするか」まで意識する家庭は少ないかもしれない。

そんななか、教育現場や家庭教育の文脈で静かに注目を集めているのが「哲学対話」という実践だ。
哲学対話とは、答えのない問いについて、複数人で話し合い、考えを深め合っていく対話の手法である。

「幸せとは何か」
「自由とはどういう状態か」
「ルールはなぜ必要なのか」

こうした抽象的な問いについて、正解を出すのではなく、「なぜそう思うのか」「その考えの背景には何があるのか」と掘り下げていくことが目的とされている。

この哲学対話を日常的に実践しているひとりが、教育哲学者の苫野一徳さんだ。
きっかけは、自身の娘さんが不登校になったこと。
「もう、学校やめたから」という言葉に対して、無理に登校を促すことなく、苫野さんは“問いをともに考える時間”を家庭のなかで始めた。

夜、寝る前に10分ほど。
「かわいいって何?」「正義って誰のためのもの?」
娘がふと口にした問いを起点に、苫野さんは一緒に考えるスタイルを取った。
この対話を重ねるなかで、娘さんは少しずつ自分の考えを言語化できるようになり、再び学校と向き合うきっかけを得たという。

娘の不登校は、苫野さんにとっても同様に悩み、心を痛める時間だったとしながらも、毎日続けた「哲学対話」は宝物のような時間だったと、著書『親子で哲学対話』(大和書房)の中で振り返る。

そもそも哲学対話は、目新しい手法ではない。
その源流は紀元前5世紀の古代ギリシアにさかのぼる。哲学者ソクラテスは、街の人々と「勇気とは何か」「善とは何か」といったテーマで対話を重ね、「無知の自覚」こそが思索の出発点であると説いた。
彼の問いかけは論破のためではなく、相手の考えを引き出し、深めることを目的としていた。

このソクラテス的な「対話による哲学」は、その後の哲学史にも大きな影響を与えた。
いわば哲学とは、本来“誰かとともに問いを考える営み”そのものだったのである。

さて、話を戻すと、夏休みは親子の時間が増える反面、会話が“用件ベース”に偏りがちな時期でもある。
「宿題は終わったの?」「ちゃんと食べなさい」などの言葉が多くなり、子どもの本音に触れる機会は減ってしまいがちだ。

そうした状況のなかで、「どう思う?」「なぜそう考えたの?」といった問いかけを意識的に投げかけることで、日常会話の質が変わる可能性がある。

以下は、家庭での哲学対話のきっかけとして使いやすい問いの例だ:

「友だちって何?」
「嘘はついてもいい?」
「大人って?」

時間は5分でも10分でもよい。
答えを出さなくていい。「そう思った理由は?」と、お互いの考えを掘り下げていくことが大切だ。

哲学対話は、特別な教育スキルや教材を必要としない。
必要なのは、経験から感じたことを言葉にしていくことだけだ。
子どもが問いを口にしたとき、すぐに答えるのではなく、「どうしてそう思ったの?」と聞き返す。
その繰り返しが、信頼関係と内省の時間を自然に育てていく。

親子の会話の質を高める取り組みとして、哲学対話はひとつの現実的な選択肢になり得る。
夏休みというまとまった時間がある今こそ、そうした“考える時間”を日常に取り入れる良い機会だろう。

古めかしい印象の「哲学対話」だが、最近はこの古代の伝統を再解釈し、教育や家庭の場に応用するかたちで広まりつつある。

正解や成果を求めがちな現代社会において、問いそのものに目を向ける姿勢は、今だからこそ必要とされているのかもしれない。

家庭のなかで交わされた小さな問いが、子どもにとって自分自身の価値観と向き合う入り口になる、とんな夏休みにしたい人はぜひ、「親子で哲学対」にチャレンジしてみてはどうだろう。

文/長谷川恵子

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この記事を書いた人

長谷川恵子
長谷川恵子編集長
猫と食べることが大好き。将来は猫カフェを作りたい(本気)。書籍編集者歴が長い。強み:思い付きで行動できる。勝手に人のプロデュースをしたり、コンサルティングをする癖がある。弱み:数字に弱い。おおざっぱなので細かい作業が苦手。

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