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人生を変えるI amな本「どうする」と悩んだのは家康だけではなかった……徳川十五代の栄光と苦悩

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少しの自己投資で人生を変える読書術。今回は小和田哲男さんの『徳川 15 代の通信簿』(大和書房)を紹介。

今年の NHK 大河ドラマは、『どうする家康』。若き徳川家康の激動の日々を描いた作品です。


戦国乱世に終止符を打ち、「徳川三百年」の礎を築いた家康は、いうまでもなく日本近世史を語るにあたって最重要人物のひとり。そして「徳川十五代」の初代将軍でもあります。では、「2 代目以降の将軍は?」と聞かれたら、ちょっと困ってしまうかもしれませんね。2 代目は秀忠、3 代目は家光まではそらんじいても、4 代目の名前はぱっと出てこないのではないでしょうか?


大河ドラマで盛り上がったところで、全将軍の実績・人物像を学びましょうと発刊されたのが、『徳川 15代の通信簿』(大和書房)です。著者は、静岡大学の小和田哲男名誉教授。これまで『どうする家康』を含め、8 本の大河ドラマの時代考証を担当した歴史学者です。こう聞いて俄然興味を持たれたのではないでしょうか? 参考までに、本書をもとに 3 人の将軍をピックアップして紹介しましょう。

幕府が迎えるはじめての幼君、4 代家綱

1641 年、家綱は 3 代将軍家光の長男として生まれました。家光が 38 歳になっての初めての男児。後継者ということで、大事に養育されます。


ところが、父の家光が 48 歳で早世。その年のうちに将軍宣下(征夷大将軍職への任命儀式)がなされ、家綱は 11 歳にして征夷大将軍となるのです。


幸いにも幕政は、有能な幕臣らによって運営される仕組みができあがっており、実務面では大きな支障はありませんでした。戦国時代は遠い過去のものと意識されたこの頃は、諸大名に厳しくのぞむ武断政治から文治政治への転換期となります。


その文治政治を象徴する政策に、「三大美事」があります。それは、「末期養子の禁の緩和」、「殉死の禁止」、「大名証人の廃止」を指します。末期養子の禁の緩和とは、後を継ぐ子のない武家当主が、危篤の際に急に願い出た養子を認めるというもの。跡継ぎがないばかりにお家断絶、家臣が浪人となって社会不安がもたらされるリスク抑制をねらったものです。殉死の禁止は、主君の死に際して、妻子・臣下が忠義を示すため自死する風習を不可としたもの。大名証人の廃止とは、諸大名が幕府に差し出していた証人(人質)を廃止したものです。


ブレーンに恵まれすぎたゆえか、家綱自身の影は薄いイメージです。大老の酒井忠清をはじめ幕閣にすべてを任せて、決裁は「左様せい」しか言わず、「左様せい様」と呼ばれていたそうです。

質実剛健な“暴れん坊将軍”、8 代吉宗

テレビドラマ『暴れん坊将軍』の主役として有名、史実的にも「幕府中興の英主」と名高いのが 8 代将軍吉宗。


ドラマは完全なフィクションですが、実在の吉宗は、当時としてはかなり高身長の 6 尺(約180cm)。鷹狩を好み、武芸に励むなど、豪胆なイメージは共通します。また、政治への取り組みは、幕閣任せにせず自ら政務を統括。さまざまな政策を打ち出します。例えば、江戸幕府最初の成文法となる「公事方御定書」「御触書集成」を制定。目安箱を各所に設置して庶民の意見を聞く仕組みをつくり、新田開発や株仲間結成など、経済の改革にも力を入れました。また、悪化しはじめた幕府財政を改善するため、倹約令を発して支出を抑制。くわえて、上米の制や定免法を実施して、旗本・御家人の財政救済と年貢収納を強化します。


享保の改革といわれる一連の政策は、しかし、農民の困窮をもたらし、人口の停滞や一揆の続発といった負の側面もありました。この点において、小和田名誉教授は、「民衆の立場からすれば、吉宗の業績すべてを賛美することはできない」と辛口評価をしています。

「田沼時代」とともに生きた、10 代家治

吉宗の孫にあたり、祖父の薫陶を受けて育ったのが 10 代将軍の家治です。先代(家重)が「生まれつき虚弱なうえに、言語が不明瞭」だったこともあり、家治にかける周囲の期待は大きかったようです。


しかし、家重の代から側近として重用された田沼意次の存在があまりにも大きいせいか、家治は前面に出てきません。のちに「田沼時代」と呼ばれるほどの世において、田沼が辣腕をふるったのが経済の立て直しと活性化です。まずは、幕府行政の予算制度の確立。これは、「前もって支出の額を決めて、年ごとに増える一方の支出を抑える」ねらいがありました。そして、流通税の導入が挙げられます。これは、当時非常に勢いをつけてきた商業の利潤に対して課す間接税です。予算制度も間接税も、今の日本では当たり前という感じですが、当時においては画期的なものでした。このほか、通貨の統一や北海道の開拓など、数々の施策を実行したおかげで、「全国的に豊かな時代」となります。


では家治は、何もかも田沼に任せっぱなしの暗君だったのでしょうか? 小和田名誉教授の見立ては違います。

良きリーダーとは、自らが動かずとも「能力」ある人物を登用し、力を発揮する場を与え、その政策を信頼して任せることもできる人物である。家治には、意次の大胆な政策を任せる器量の大きさがあったといえるのではないだろうか。(本書 218p より)

ただ、それも後継者と見込んでいた子の家基が、18 歳で急死するまでの話だったようです。家治はこれに相当ショックを受けたためか、「このあと政治から離れ、絵画・囲碁・将棋といった趣味の世界に逃避」してしまうのです。


本書は、書名に「通信簿」とあるとおり、全将軍の決断力や教養など 5 項目において、5 段階評価がつけられています。その中でオール 5 は家康のみ。素質、健康、時代の趨勢に翻弄され、評価が低い将軍が目につきますが、やはり人の子ということなのでしょう。個人的にはむしろ、目立たない将軍のほうに妙に心惹かれますが、あなたならどう判断されるでしょうか?

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この記事を書いた人

鈴木 拓也
鈴木 拓也
都内出版社などでの勤務を経て、北海道の老舗翻訳会社で15年間役員を務める。次期社長になるのが嫌だったのと、寒い土地が苦手で、スピンオフしてフリーランスライターに転向。最近は写真撮影に目覚め、そちらの道も模索する日々を送る。

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