Interview
インタビュー

「先生、泣いちゃったの」。八代亜紀が作曲した「想い出通り」。「亜紀ちゃん、書いて」と言われ、50年来の恩師への想いとは?

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出世作「なみだ恋」発売から50年、亡き恩師に捧げる「想い出通り」を発売した八代亜紀さんに聞いた、楽曲誕生の秘話と思いとは。

プロフィール

歌手八代亜紀

熊本県八代市出身。1971年にデビューし、1973年に出世作「なみだ恋」を発売。「愛の終着駅」「もう一度逢いたい」「舟唄」等のヒット曲を出し、1980年に「雨の慕情」で第22回日本レコード大賞・大賞を受賞。

最愛の夫を亡くした妻の思いの丈が詰まった曲。作詞家・悠木圭子さんが亡き夫である作曲家・鈴木淳氏を偲んで作った歌詞に、八代亜紀が作曲して生まれた「想い出通り」について、八代亜紀さんが思いの丈を語ってくれました。

遺された妻が亡き夫に向けて書いた詞に八代亜紀が作曲

――新曲「想い出通り」は、八代さんの恩師である鈴木淳さんを思って生まれた曲ですね。

八代:2021年12月に鈴木先生が亡くなられてから、(奥さまで作詞家の)悠木(圭子)先生はひとりぼっちになってしまったので、よく励ましに行っていたんです。「元気でないのよ」と言われたので、「詞を書いたらいかがですか」と言ったら、数日後に「亜紀ちゃん、書けた」って連絡が来たんです。

――先に旅立たれた鈴木さんを思う、奥さまの歌詞が胸に響きました。

八代:そうよね。詞を読んだとき、鈴木先生のことをたまらなく愛していたんだなと感じました。だから悠木先生に「曲を作って、レコーディングしませんか」って伝えたの。でも「夫以外の人に曲を書いてもらうのは抵抗がある」って言われてね。どうしようかなと思っていたら「亜紀ちゃんが書いて。亜紀ちゃんならいい」って。でも私は楽器が弾けないじゃない。だから頭に浮かんでいたイントロを鼻歌で歌って、そのメロディーを曲にしてもらったの。悠木先生に「できました」って聴いてもらったらね、先生泣いちゃったの。

2023年3月15日にリリースされた「想い出通り」

――八代さんと鈴木さん、悠木さんは、八代さんの最初のヒット曲「なみだ恋」からのお付き合いだと聞きました。今年はこの「なみだ恋」をリリースしてから50年目でもありますね。

八代:そうなんです。私が22歳ぐらいのときからのお付き合い。大切な恩師です。「なみだ恋」は、新宿を舞台にした曲なので、当時は歌舞伎町の商店街の人たちも応援してくれたんですよ。新宿コマ劇場(2008年に閉業)があった広場周辺のビルの外側に、「大ヒット 八代亜紀」って書いた垂れ幕をかけて下さったりして、とってもうれしかった。

八代亜紀がフランスで開催したコンサートで「八代の演歌を聴きたい」のリクエストが

――2020年にデビュー50年を迎え、昨年はフランス・パリでもコンサートを行いました。フランスは画家の登竜門と言われる世界最古の美術展「ル・サロン」で5年連続入選し、永久会員になるなど八代さんにとって縁がある国ですね。

八代:コンサートは超満員だったんですよ。それもフランス人が7割。現地の方から「八代の演歌を聴きたい」とリクエストされて、「なみだ恋」や「雨の慕情」などを歌いました。ステージから涙を流している人の姿が見えたときは、「来てよかったなぁ」って思いました。

――コロナ禍の滞在ではありましたが、パリではゆっくりできましたか。

八代:パリを訪れたのは、約30年ぶり。昔の記憶を頼りに、モンマルトルの丘に行きました。(パブロ・)ピカソや(アメデオ・)モディリアーニなどがアトリエを構えた、画家が集まる場所。広場のあちこちにイーゼルを立てて絵を描いている人たちの姿を何時間も眺めて、楽しかった思い出があったので、「また行きたい!」ってお願いしたんです。でも原宿の竹下通りみたいににぎわう観光地になってしまっていて、変わってしまったんだなと……。ちょっと寂しかったです。

2020年にフランス・パリでコンサートを開催し大成功を収めた

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