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バツイチ・フリーランスで子供もいない。つながりのない東京で 70 歳になったとき「誰が私を?」移住を決意したリアルとは?

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東京で長く暮らすフリーランスにとって、地方移住の魅力とリスクは何か? 『女フリーランス・バツイチ・子なし 42 歳からのシングル移住』の著者、藤原綾さんに話をうかがった。

プロフィール

インタビュアー、スタートアップ広報中村優子

(なかむら・ゆうこ)元テレビ局アナウンサー、インタビュアー、スタートアップ広報。作家・林真理子さんのYouTubeチャンネル「マリコ書房」、および著者インタビューサイト「本TUBE」を運営。インタビュー動画の企画から出演、編集まで一人でこなす。年100本以上の動画制作に関わる。2022年、スタートアップ広報の会社を設立。

移住のハードルは「地方でも稼げるか?」

写真:本人提供

ひと昔まで「移住」といえば、「定年を迎えた熟年世代が、都会を離れ地方で暮らす」というイメージがありました。それが東京一極集中の社会問題化、地方創生の諸政策によって、若い世代も考えるようになり、コロナ禍がそれを一気に後押ししました。


さらに、ここ数年、フリーランスの人たちの中でも、移住を検討する人が増えてきました。


とはいえ、実際に行動に移す人は意外と少ないようです。どうしても、「地方で稼げていけるのか?」といった不安要素が足を引っ張ります。

ただ、仕事がほぼリモートワークで完結できるなら、そして大都会に住むことに違和感があるのなら、移住は現実味のある選択肢だと思いませんか?


今回は、東京生まれの東京育ちでありながら、鹿児島県の片田舎に移住した、フリーランスライター兼編集者・藤原綾さんにインタビューしました。独身(バツイチ)で 40 代を迎えての移住は、はたして吉と出たのか凶と出たのか? 本音を語ってもらいます。

バツイチ・子なしフリーランスの老後の不安

写真:本人提供

藤原さんは、大学を卒業後、大手保険会社に入社。しかし、企業の風土が「私には向いていなかった」と実感。出版社に転職し、雑誌の制作に携わります。その後、別業界で働く男性と結婚したのを1つのきっかけとして退職。今度はフリーランスの立場で、古巣の出版業界を舞台に活躍する日々が始まります。


30 代半ばで離婚した後は、仕事優先の人生を送っていたそうです。


そんな藤原さんが東京から縁もゆかりもない鹿児島に移住を決めた決定てきな理由とは、ワークライフバランスや QOL とは異なる理由でした。


「例えば、両隣の住人の名前も知らない状況で、首都直下地震が起きたら……果たしてここで助け合いが行われるのか疑問です。これは、なかなか危険な状況なんじゃないかと思っていました。
そんなおり、母はすでに亡いなか、父が突然死しました。私の両親がいなくなったことによって、次は自分の番だと思ったのです。バツイチ、フリーランスで子どももいない。そんな私のことを誰が見つけてくれるのだろうと。今は、仕事をしていて、友達と会うこともあるからいいでしょう。これが 70 歳になったときに、毎日顔を合わせる相手は、自分にいるのか考えたときに、この個人主義に満ちた東京の脆弱さが気になりました。
それで、同じ地域に住んでいるということだけで、他人同士が助け合えるような環境が、今後の自分の人生には必要だと考え、東京から移住しようという発想が出てきました」


30 年も先を見据えた移住のように思えますが、大都会東京では珍しくないライフスタイルを送った藤原さん。フリーランスになってからの仕事内容をうかがうと、次の答えが返ってきました。

「2007 年頃にフリーランスの編集者を始めたときは、雑誌づくりがメインでした。ファッション誌に載るモデルさんや女優さんの撮影現場のディレクションも含め、記事の企画、紙面の構成、カメラマンさん、スタイリストさん、ヘアメイクさんのアレンジなど、全般的にかかわりました。原稿も、ライターさんに振るときもあれば、自分で書くことも。ほぼ、出版社でフルタイム勤務していたときと変わらない仕事内容でしたね。
フリーランスになってしばらくは、付録のある雑誌が爆発的に売れていた時代で、仕事は途切れることなく本当に運がいいとしか言いようがなかったです。
今は、雑誌はほとんどやっていなくて、書籍や広告、寄稿など、ライターの仕事がメインになっています」

東京生まれ、東京育ちが東京に見切りをつけたワケ

写真:本人提供

藤原さんの、移住後の仕事に変化については、のちほど改めて紹介します。まずは、移住を決断するに至った心境をうかがいました。


「暮らしづらくなっていく東京で、このまま働き続けるほうが、リスクが高いという決断に至ったことが、一番大きな理由です。
東京で生まれ、40 年以上暮らしていたので、明らかに東京という町が変化してきたことを、強く実感していました。
どこの街も同じ印象で、人が文化を作っているのではなく、企業が文化を作ろうとしているという違和感。新宿も渋谷も、前はそれぞれ個性があって、全く違う街だったのに、企業が合理性や効率性を求め、いかに儲けるかという話になって……。それを念頭につくられた街は、当然似通っていきます。住んでいる人も、それに合わせられているというか……。多様性と言いながら、どこも画一的になって、どんどん街がつまらなくなっていきました。
そして、貧富の格差が広がっているのも目に見えて感じます。この格差拡大は、おそらく止まらないだろうと。
もう1つ、個人主義が蔓延していることも、特徴的です。人と人のコミュニケーションを、あまり重視しないという風潮が広がっています。たしかに、自由でいたい、しがらみはないほうがいい、面倒な縁はすぐ切れる、という個人の自由だけを謳歌することは楽かもしれません。でも、東京にそういう希望を持った人たちが集まって、全体がそれに染まってしまうのは危うく思います」


そして 70 歳になった自分を予想し、地方への移住を決断したのです。

首都圏と地方。天秤にかけると首都圏に軍配

写真:本人提供

コロナ禍直後、東京都からの転出者は 4 万人増えました。ですが、その行き先は、隣の神奈川県、埼玉県、千葉県がほとんど。遠くても茨城県や長野県と、いざとなれば容易に東京にアクセスできる場所が大半でした。北海道や九州のような遠方は、レアケースであったというのが実態です。


やはり大多数の人は、メリットとデメリットを天秤にかけると、「首都圏がいい」となってしまうようです。


しかし、藤原さんは違いました。「大阪のような別の大都市は全然考えられなくて」、最終的に移住先に決まったのは鹿児島県霧島市。1 市 6 町が合併してできた霧島市のなかでも、民家まばらな田園地帯でした。


移住の決め手は、鹿児島市には親戚がいる、好きな温泉が近くにある、そしてちょうどぴったりの物件が見つかるという、三拍子がそろったことでした。


藤原さんは、移住後の生活について、こう語ります。


「暮らしについては、本当に大満足。来てよかったとしか思わないです。地域の人たちとの関係づくりも少しずつ進んでいるし、孤独感は感じません。ご近所さんが、みな家族・親戚みたいな感じです。」


続編は5月24日に配信予定です

(藤原綾さんの写真:©chihiro.)

この記事を書いた人

鈴木 拓也
鈴木 拓也
都内出版社などでの勤務を経て、北海道の老舗翻訳会社で15年間役員を務める。次期社長になるのが嫌だったのと、寒い土地が苦手で、スピンオフしてフリーランスライターに転向。最近は写真撮影に目覚め、そちらの道も模索する日々を送る。

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