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ChatGPTには書けない、自分らしい文章術・超入門

文章を書くポイントは「結論」ではない。最後までエピソードを書く方が伝わりやすい

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文章のプロフェッショナル・前田安正氏が教える、AIが主流になっても代替えのきかない「書く力を身につける」文章術講座。第8回は「伝わる文章には、最後の一行までエピソードが書かれている」についてです。

プロフィール

未來交創代表/文筆家/朝日新聞元校閲センター長前田安正

ぐだぐだの人生で、何度もことばに救われ、頼りにしてきました。それは本の中の一節であったり、友達や先輩のことばであったり。世界はことばで生まれている、と真剣に信じています。
2019年2月「ことばで未来の扉を開き、自らがメディアになる」をミッションに、文章コンサルティングファーム 未來交創株式会社を設立。ライティングセミナー「マジ文アカデミー」を主催しています。

文章が下手と悩む人のための超文章入門。生成AIが当たり前になった今だからこそ、ChatGPTには書けない、自分の言葉で文章を書く力を身につけたい。朝日新聞社の元校閲センター長で、10万部を超えるベストセラー『マジ文章書けないんだけど』の著者・前田安正氏による文章術講座。今回は「伝わる文章には、最後の一行までエピソードが書かれている」について教わります。

起承転結の「結」=「結論」は常識?

「起承転結」の「結」が「結論」だと信じるようになったのは、いつからなのでしょうね。実は僕も長い間、「結」は「結論」だと思っていたのです。

中学の頃に中国唐代の詩人・孟浩然(もうこうねん)がつくった「春暁」を習ったように思います。4句で構成されている詩を絶句といいます。その1句が5文字のものを五言絶句といいます。その中で最も有名なものが「春暁」です。

「起承転結」も、その時に教えられた気がするのです。「結」が「結論」であると教わったかどうかは、今となっては記憶の外です。しかし、この頃からこの刷り込みが始まったことは確かです。

「起承転結」は、漢詩の絶句の構成法を指す用語です。改めて「春暁」を見てみます。

[起春眠不覺曉(春眠曉を覚えず)

[承]處處聞啼鳥(処処啼鳥を聞く)

[転]夜來風雨聲(夜来風の声)

[結]花落知多少(花落るつこと知る多少)

[起]で、春の朝の心地よさを、うたい起こしています。しかもうららかな春に包まれて、朝起きられない、というなかなか斬新な切り口です。

[承]では、明るい春の朝をさえずる鳥(啼鳥)によせて描いています。

[転]では、その穏やかさが一変します。朝の爽やかさから一転、「夜」「風雨」という暗いイメージのことばを出して対照的です。

[結]前の句を受けて、風雨に濡れそぼって地面に落ちた花を印象づけ余韻を残します。そこには、穏やかさだけではない春が醸す生命力の勢いが表現されています。

この詩をみても、[結]は「結論」ではありません。漢詩に結論を書くシチュエーションはありません。もともと詩の作法としていたものを、小説・随筆・日記・論文・手紙などに用いられる文章(散文)にも応用されたものです。

ところが、「結」が「結論」だとする解釈は文章における自由を縮めてしまいます。

[起]はうたい起こしで、骨となる部分を提起します。漢詩では、高い風格、非凡な着想が必要だとされます。散文では、端的に伝えたいことの肝を書くということです。

[転]は場面の転換です。このとき、漢詩では人の意表に出るような奇抜さが求められ、腕の見せどころとなります。散文の場合は、関連した別のエピソードを加えたり、[承]をさらに発展させたりします。そのため[転]は[展]だと解釈することもできます。

[結]は[転]を受けながら、全体が有機的に結び付くようにします。余韻を言外に漂わすことができればパーフェクトです。

これを見ればわかるように、結」は「結論」ではありません。「起承転結」を「起承転合」とも呼びます。「合」は「合う」「結び付く」という意味です。つまり「結」は単なる「結び」なのです。

論文でない限り、結論を最後に書く必要はありません。そもそも、文章の最後に結論めいたことを、それらしいことばを使ってまとめる必要はないのです。

最後の1行までエピソードを紡いでいけば、いいだけなのです。

とは言っても「結論」を書かない方法は、実際にどうすればいいのかを教わったことはありません。今回はそこを考えていきます。

文章の最後までエピソードを書く方法

【Step1】キーフレーズを見つける

次の例を見てください。

【例1】

娘は人見知りで、近所の人に声を掛けられるだけで泣き出してしまう。このまま幼稚園に通えるのだろうか、とずっと心配していた。

ところが、先生方や娘の友達、保護者のみなさんのおかげで、次第に娘も人見知りがなくなってきた。

卒園の日、娘は「幼稚園、楽しかったね。小学校楽しみだなあ」と言った。こんな日が来るなんて、入園時には想像もできなかった。○○幼稚園ありがとう。

200字足らずの愛らしい文章です。こうした書き方が悪いと言うつもりはありません。ここでは「結」を考えるために示した例です。

最後の段落が「結」に相当するものです。そこに、

○○幼稚園ありがとう。

ということばがあります。ここに到る文章は、この一言に集約されます。これは、誰の視点で書いたのかというと、娘の保護者です。ところが、この文章のなかには、他に重要なキーフレーズが潜んでいます。「ありがとう」と書くことによって、そのキーフレーズが霞んでしまっているのです。

そのキーフレーズこそが、

「幼稚園、楽しかったね。小学校楽しみだなあ」

と言った娘の一言です。ここに、娘が幼稚園で過ごした間の成長がギュッと詰まっています。ここを「結び」にすれば、「ありがとう」などのことばは、もはや不要です。ただしその際、一工夫必要です。

【Step2】キーフレーズの配置を決める

最後の段落を書き換えてみます。

【例1】

卒園の日、娘は「幼稚園、楽しかったね。小学校楽しみだなあ」と言った。こんな日が来るなんて、入園時には想像もできなかった。○○幼稚園ありがとう。

【改善例1】

卒園の日、娘は言った。「幼稚園、楽しかったね。小学校楽しみだなあ」

改善例1では、例1の「こんな日が来るなんて」以降を削りました。そして、カギ括弧の中にある娘のことばを独立させました。

例1では、娘のことばが一文の中に紛れ込んでいるので、それがキーフレーズであることに気づきにくいのです。ところが、改善例1では台詞部分を外に出したことによって、キーフレーズであることがはっきりするのです。

これは、単に視覚的な効果だけを狙ったものではありません。例1と、改善例1を声に出して読みくらべてください。すると例1は、何の引っかかりもなくスーッと読めると思います。一方、改善例1では「卒園の日、娘は言ったの後、一拍おいて、娘の台詞を読むはずです。この間が、キーフレーズとしての意味を持たせることになるのです。

重要な台詞を話すときは、必ず、その前で間をおいて溜めをつくります。文章の場合は、読み手がキーフレーズであることに気づかせるよう、独立させるようにするのです。

そうすると、娘の台詞がキーフレーズとしての意味を持ち、そこで終わることで余韻を持たせることができます。その余韻が、そこまでの流れをまとめて結びつけてくれます。

最後まで、エピソードを書いていけば、読み手が自然にその世界観を醸成し、文字を映像化してくれるのです。僕たちは、文字で描かれたものを映像化しながらストーリーを追っていきます。そのため、

「こんな日が来るなんて、入園時には想像もできなかった。○○幼稚園ありがとう」

などという収まりのいい文章を書かなくても、「キーフレーズ」をうまく配置するだけで、娘と母の感謝や希望といった情感を受け取ることができます。

レベルアップ!「伝わる」+「余韻を残す」文章を書く方法

一文を加えるだけで、読み手にぐっと迫る情景になる  

それでも、もう一押ししたいというなら「ありがとう」という直接的なことばではなく、卒園の日の情景を一文、改善例の後に付け加えればいいのです。

【改善例2】

卒園の日、娘は言った。「幼稚園、楽しかったね。小学校楽しみだなあ」

園庭の桜の花芽が膨らんでいた。

こんな一文を加えると、卒園して、満開の時期に迎える小学校の入学式の情景が、希望ということばを伴って画像として浮かんできます。

これは俳人の正岡子規が唱えた「写生説」を模した手法です。「写生説」は、俳句や短歌などをつくる際に、絵画のスケッチと同じように、実際の風景をありのままに写し取る方法論です。夏目漱石が散文にも取り入れたと言われています。

園庭の桜の花芽が膨らんでいた。

という一文だけを取り出しても、そこに何の感情も生まれません。ところが、そこに到る文章の流れを汲んだうえで、この一文を読むと、自然に感情が生み出されるのです。

改善例2では、台詞を話す娘をアップで捉えた後、スーッと、桜の花芽の高さまでカメラが引いていきます。そして、膨らんだ花芽をアップにした園庭を、母娘が門に向かって歩く姿が、映像として浮かんできます。つまり、感情表す直接的なことばを用意しなくても、心模様は表現できるのです。

とはいえ、改善例2で加えた一文は、屋上屋を架す感があります。娘の台詞をキーフレーズとして終わればいいので、敢えて付け加える必要はないと思います。余韻を残す方法の一つは、足し算より引き算です。さまざまな要素を付け加えるほど、焦点がぼけてきます。引き算をして削り込んだ方が、ことばが際立ってくるからです。

起承転結の「結」を「結論」だと思うのは、いつの間にか植え付けられた「常識」です。

しかしその常識が、文章の自由を奪う呪文のようになっているのです。「結」は単なる「結び」です。最後までエピソードを書いていけば、結論という縛りから自由になります。この感覚を養っていくようにすれば、文章の悪しきパターンから抜け出すことができます。

執筆/文筆家・前田安正

写真/Canva

この記事を書いた人

前田 安正
前田 安正未來交創代表/文筆家/朝日新聞元校閲センター長
早稲田大学卒業、事業構想大学院大学修了。
大学卒業後、朝日新聞社入社。朝日新聞元校閲センター長・元用語幹事などを歴任。紙面で、ことばや漢字に関するコラム・エッセイを十数年執筆していた。著書は 10万部を突破した『マジ文章書けないんだけど』(大和書房)など多数、累計約30万部。
2019年2月「ことばで未来の扉を開き、自らがメディアになる」をミッションに、文章コンサルティングファーム 未來交創株式会社を設立。ことばで未来の扉を開くライティングセミナー「マジ文アカデミー」を主宰。

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