Interview
インタビュー

《南野陽子の仕事論》人は一人では生きられない。おせっかいを焼きながら、悔いなく生きる

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南野陽子

「仮面ライダーガッチャ―ド」に出演する南野陽子さんが語る、大人が好きなことを仕事にするために必要なこととは。

南野陽子

プロフィール

俳優南野陽子

(みなみのようこ)兵庫県生まれ。18才の誕生日に「恥ずかしすぎて」で歌手デビュー。オリコンチャート9作品で1位となる。ドラマでも「スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説」(85年)で主人公の2代目・麻宮サキ役を演じ、一躍トップアイドルに上り詰めた。近年もNHK大河ドラマ「西郷どん」(18年)、ドラマ「半沢直樹」(20年)などの話題作に出演。2023年に、日本カンボジア友好関係70周年親善大使に任命。

デビュー38年目を迎えた南野陽子さん。好きを仕事にし続けるために、最愛の母から言われた言葉を大切にしていると言います。

南野陽子
38年ぶりに特撮ドラマに出演する南野陽子さん

人は一人で生きられない−芸能活動38年目の答え

6月に芸能活動38年目を迎えました。長く活動をさせていただいて思うのは、「人は1人では生きられない」ということ。何のために自分が存在しているのかを、常に考えて行動するようにしています。お仕事をお受けするときに大切にしているのは「あったかい気持ちになることができるのか」ということ。これは母に言われた言葉です。母が喜んでくれるのか、友だちや好きな人が笑顔になってくれるのか。それは最終的に私の幸せでもある。小さいころから、おせっかい焼きな子で、バレエのレッスン中も、自分もやらなくちゃいけないのに、足を上げられない子の足を両手で持って上げてあげるような子どもだったので、悔いなく生きるために、いつも誰かの笑顔を最優先に考えたいんです。

見守ること、そして人を信じることの難しさを痛感

高校1年生のときにスカウトされたことがきっかけで、18歳のときにデビューしました。1985年にシングル「恥ずかしすぎて」で歌手としての活動もスタート。生まれ育った兵庫県伊丹市から上京して右も左も分からない中、目まぐるしい日々を過ごしていました。初めて主演したドラマ「スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説」(1985~86年)、映画「スケバン刑事 II 少女鉄仮面伝説」(87年)の主題歌「楽園のDoor」がヒットし、歌番組などにたくさん出演させていただくようになりました。寝る時間もないほど多忙でしたが、私のことを信じて見守ってくれた人たちの顔は、今でも頭に浮かびます。全速力で走っている人間に「頑張って」と言うのは酷ですよね。私自身、若かったときに「頑張って」と励まされ、「これ以上、頑張れないよ」と言い返したことがありました。今は若い人たちに囲まれることも多くなって、「人を信じることの難しさ」を痛感しています。「きっと乗り越えてくれるから大丈夫」と信じることは、大きな包容力がなければできないこと。当時、私を見つめてくれた人たちに改めて感謝をし、私自身もそうなりたいと思っています。

コンプレックスと感じるところこそ、その人の魅力

「あなたはどんな人を好きになりますか?」と聞かれたら、何て回答しますか? 背が高くてカッコ良くて、優しくてお金持ちで…。世の中、そんな完璧な人ばかりじゃないですよね。キラキラとしているように見える芸能界にも、セリフを覚えるのに苦労してもがいている人、立っているとオーラが凄いけれど、座ると猫背になってしまう人など、チャーミングだなと思う部分を持っている人が多くいます。いい加減でダメなところがあるのが人間。本人がコンプレックスに感じている部分こそが、その人の魅力だと私は思います。

10代から「帰宅後5分お掃除」継続のコツは?

帰宅をした後は必ず5分間は掃除をすると決めています。これは10代で上京したときから続けていること。玄関のドアを開けて冬ならコートを着たまま、今日はお風呂場、今日は台所と決め、掃除に熱中します。元々、面倒くさがり屋なので、決めた5分間だけはやると決めたことを続けている感じなんです。続けていると、大掃除をしなくてすみます。便座などは週1で拭くだけで、10年以上ピカピカのまま。5分経ったら必ず止めること。これが続ける秘けつです。

1989年以来のカンボジアとの縁、今なお

1989年に「24時間テレビ」(日本テレビ系)で訪問して以降、カンボジアとの縁が生まれました。当時は空港に銃を手にした治安関係者もいて、緊張した空気がありましたが、インフラ(インフラストラクチャー)が進んだ現在は、街並みもだいぶ穏やかになったと感じます。関連行事に協力する「日カンボジア友好70周年親善大使」に任命していただき、2月には「一緒に未来を作って行こう」と歌詞を書き下ろした「明日への虹」を現地で歌わせていただきました。国際交流というと難しそうに聞こえるかも知れませんが、「知り合ったあの子は元気で暮らしているかな」と友だちとして思う気持ちが第一歩だと私は思っています。カンボジアの人たちが日本を知り、日本の人々がカンボジア知るために尽力したいです。

取材・執筆/翡翠

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