オザワ部長のちょっと変わった履歴書20年前に早期退職を経験した元百貨店勤務、現相撲ジャーナリストの新井太郎さんに学ぶ、好きなことを仕事にするべき理由
今回のちょっと変わった履歴の持ち主
相撲ジャーナリスト
荒井太郎(あらい・たろう)1967年4月7日、東京都杉並区に生まれる。早稲田実業学校高等部を経て、早稲田大学第一文学部史学科西洋史学専修卒。西武百貨店勤務の後、2002年より独立。
砂場の横綱
相撲への並々ならぬ愛情を持つ相撲ジャーナリスト・荒井太郎は、大相撲の本場所が始まると会場の支度部屋で取組を終えた力士たちに談話をとる。土俵での真剣勝負を終えたばかりで息を荒らげ、興奮が冷めきっていない力士たちの声は、どれも生々しい。
「力士も、親方も、みんな普通じゃない人生を送ってきている。自分ではとても経験できないことだ。その言葉をこんな間近で聞けるなんて、本当にエキサイティングな仕事だ!」
太郎はインタビューをしながら、自ら選択した仕事の喜びや醍醐味に胸を震わせる。
そんな彼の姿を見て、前職がアパレル関係だったと気づくものはほとんどいないだろう。
1967年、太郎は東京都杉並区に生まれた。
物心ついたときから相撲が好きで、当時の蔵前国技館には幼いころからよく本場所を見にいった。自宅の近くには相撲部屋があり、太郎にとって相撲の世界は身近なものでもあった。相撲専門誌も毎月購読し、星取表を自作していた。ひいきの力士は初代貴ノ花と横綱北の富士だった。
もちろん、小学校の砂場では友だちを相手に相撲を取った。技をよく知っていたし、ほかの子はやらない「相手の胸に頭をつける」といったことをしていたので、太郎は砂場の横綱だった。
13年間のデパート勤務
地元の小学校、中学校を卒業し、名門として知られる早稲田実業学校高等部普通科に入学。早稲田大学第一文学部では西洋史学を学んだ。
実は、荒井太郎は高校時代に音楽に目覚め、大学まではバンド活動一色の生活を送った。ビートルズのような大衆にも愛される楽曲をつくれる作曲家になるのが夢だった。
1990年に大学を卒業し、就職したのは西武百貨店だった。
「世間の空気に触れていないと大衆音楽はつくれないんじゃないか」
そう考えた末の選択だった。
太郎が配属されたのは婦人靴売り場だった。そもそもファッションに興味がなく、まわりもほとんどが女性社員だった。時代はバブル経済の全盛期。太郎は資産家のご夫人たちにひざまずきながら接客をした。
どれだけ働いてもファッションが好きになれず、要領だけでやってきた太郎は、2001年からなんと婦人服売り場のフロアマネージャーに昇進してしまった。一方、とうにバブルは崩壊し、百貨店業界も荒波に飲み込まれかけていた。思い入れや執着がなければ、続けていくのは難しい状況だと太郎は感じた。
「やっぱり自分みたいな人間がこの業界にいちゃいけないな」
そんなとき、会社が35歳以上の社員を対象に早期退職者の募集を始めた。退職金も優遇される。
2002年秋、35歳で太郎は自ら手を挙げ、会社を辞めた。
相撲というブルーオーシャン
早期退職の数カ月前、たまたま飲み屋で知り合った編集者から、相撲専門雑誌『月刊読売大相撲』の編集長を紹介され、何度か読者投稿欄に載せてもらったことがあった。
退職するとき、太郎の頭に浮かんだのは「相撲雑誌の記者になりたい」という思いだった。
「サラリーマンだって社内で生き残るのは大変な時代だ。どうせサバイバルするんだったら、会社の中にいても外にいても同じだ。だったら、思い切って趣味を仕事にしてみよう」
退職金は2年ほど生活できる額だった。2年あれば軌道に乗せられる、という根拠のない自信があった。
妻には退職に猛反対され、「離婚する」とまで言われた。これからお金がかかる4歳の子どももいたため、当然の反応だった。だが、自分の両親には「それはいいことだ」と背中を押された。
記事というものを一度も書いたことがない太郎だったが、『月刊読売大相撲』で記者として使ってもらおうと思っていた。もし退職前に編集者に「会社をやめようと思っている」と伝えたら、きっと「やめないほうがいい」と言われるだろう。だから、敢えて退職後に「やめちゃったんですけど、どうしたらいいでしょうか?」と伝えた。
「そうか。やめちゃったならしょうがないな」
編集者はそう言い、フリーの記者として編集長に使ってもらえることになった。太郎の作戦は成功した。
いきなり記者の仕事をたくさんもらえるわけではなかったため、アルバイトをして生計を立てた。その後、記者としての仕事は順調に増え、3年後には百貨店時代の収入を超えた。もはやアルバイトする必要もなかった。
一時期、プロ野球雑誌でもライターとして仕事をした。相撲もプロ野球も両方手掛ければ、収入は増える。だが、これでいいのだろうか? 太郎は迷った。
「プロ野球では詳しいライターがいくらでもいる。だったら、相撲一本に絞ったほうがいいんじゃないか。自分は相撲ジャーナリストとしてやっていこう!」
プロ野球という「レッドオーシャン」ではなく、ニッチな相撲という「ブルーオーシャン」に賭ける。太郎のその戦略は当たった。「相撲ジャーナリスト」という看板を掲げると、プロ野球ライターを兼ねていたときよりも依頼が増えたのだ。
相撲の専門家として引っ張りだこに
2010年に『月刊読売大相撲』が休刊になるというピンチも経験したが、翌年からライバル誌だったベースボール・マガジン社の『月刊相撲』で記者として書かせてもらえることになった。もともと取材現場で編集者や記者と仲良くしていたために救ってもらえたのだ。
また、相撲の単行本の企画も通るようになった。記者、ジャーナリストとしてテレビやラジオからお声がかかったり、相撲の番組やドラマの相撲シーンの監修をしたり、仕事の幅も広がった。
百貨店を退職したこと、相撲の仕事に特化したこと。大きな人生の岐路での荒井太郎の選択は、いずれも正しかった。
これまでの相撲ジャーナリストとしての活動では、元横綱 千代の富士の九重親方や、現役時代の横綱 貴乃花、モンゴル出身の大横綱 朝青龍など、多くのカリスマと相対してきた。
もっとも記憶に残っているのは、2017年の1月場所で当時大関だった稀勢の里が初優勝したときのことだ。外国人力士が席巻する中、何度も優勝や綱取りに挑んでは叶えられなかった稀勢の里がついに栄冠をつかんだ。稀勢の里は横綱に昇進し、続く3月場所でも連続優勝を果たした。
太郎は仕事で感動することはほとんどなかったが、そのときは胸がいっぱいになった。表彰式を花道の奥から見守った。いつもの表彰式なら、『君が代』の斉唱は誰もが口ずさむ程度。しかし、そのときは会場中の観客が声を張り上げて歌い、大合唱が響いた。背筋が震えた。
自分の人生の土俵に上がれ
相撲ジャーナリストとして確固たる地位を築き上げた荒井太郎。いま望むのは、より多くの人に相撲を知ってもらいたい、相撲を好きになってもらいたい、ということだ。
「一度でいいから、生で見てほしい。力士と力士がぶつかり合う迫力には、きっと誰もが心奪われるはずだ」
場所入りするときの力士の着物、きらびやかな行司の衣装、呼び出しの美声、国技館の周辺に漂う鬢付け油の匂い……など、競技以外にも見どころがたくさんあるのが相撲だ。
その魅力を伝え続けていくのが自分の務めだと太郎は思っている。
自分の好きなことを仕事にし、成功してきたが、同じような志を抱いている人たちに太郎が伝えたいのは、「他人のアドバイスを真に受けるな」ということだ。
太郎が相撲で食べていこうと考えたとき、「趣味を仕事にしたってうまくいかないよ」と言われたことがある。実際にチャレンジして失敗した人の言葉ならまだわかるが、チャレンジすらしていない人が上から目線でアドバイスしてくる。若くて素直な人ほど、ついそんな言葉を真に受けてしまう。
しかし、自分の人生に責任を持てるのは自分だけ。もし他人の言葉に従ったからと言って、その人が面倒を見てくれるわけではない。
自分の人生の土俵を見つけ、自らの意志で相撲を取る——。
荒井太郎はこれからもそんな生き方を貫いていく。