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額賀澪のメシノタネ小説家とチーズケーキ――担当編集が突然NYへ行ったら

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小説家・額賀澪が「好きを仕事にする人たち」にフォーカスして書き下ろすエッセイ「メシノタネ」。#02は「担当編集が突然ニューヨークへ旅立った話」です。どこに行っても結局「面白いこと」をやりたくなってしまう編集者というお仕事。

「ダメだ、こ、言葉が枯渇した」

明日〆切りの原稿を無事書き終えて担当にメールで送り、来週〆切の別の小説のプロット(物語の設計図のようなもの)を作ろうとしたのだが、キーボードに手を置いたきり一文字も絞り出せなかった。

小説を書き上げた直後というのは、42.195kmを走り終えたマラソンランナーがぶっ倒れるのと同じで、頭の中の言葉を生み出す部位がヘロヘロに消耗する。

具体的にどうなるかというと、

「あのさ、嫌いな人を怖い顔でキッと睨むことって何て言うんだっけ? キッ! ってさ、キッ! ってやるのよ。あ、ああ、〈睨む〉だわ。自分でもう〈睨む〉って言ってたわ……」

……という具合になる。

メガネをかけたままメガネを探しているような状態の私に付き合わされるのは、もちろんルームメイトの黒子ちゃんである。

「よかったですねえ、解決して」

自分の部屋で絶賛仕事中だった黒子ちゃんは、それはそれは迷惑そうな顔で振り返った。

ちなみに黒子ちゃんの仕事はゲームのシナリオライターである。大学時代からかれこれ12年もこの仕事をしている。実は「物書きとしてメシを食う」という意味では私よりベテランだ。

「語彙力が尽きたならおでかけでもしてきなさい。〆切クリアしたんでしょう?」

「そうします……」

黒子ちゃんに勧められるがまま家を出た。こめかみのあたりが痺れて、どんよりと痛んだ。それに腹も減った。

これは甘いものを食べないとダメなやつだな。電車に乗り込んで、ついでに新宿で映画でも観ようと思い、スマホでチケットを買った。

新宿三丁目のバルト9で映画を観るときは、上映まで地下のブルックリンパーラーで時間を潰すのがお決まりだった。

初めて連れてきてくれたのは大学の先輩だった記憶がある。大量に本があって、洒落た音楽がかかっていて、「ブルックリンって感じだね」と呟いた先輩に「行ったことあるんですか?」と問いかけたら、「パスポート持ってない」と先輩は答えた。

先輩とはすっかり疎遠になってしまったが、映画のたびにブルックリンパーラーに寄る習慣だけは未だに残っていた。

ニューヨークベイクドチーズケーキを食べるかプレッツェルを食べるか迷っていたら、メールが届いていることに気づいた。

元・担当編集のワタナベ氏からであった。

ワタナベ氏とはかつて『拝啓、本が売れません』というルポを一緒に作った。小説家である私が初めて作った、小説ではない本だ。「本を売るにはどうしたらいいのか?」をテーマに、出版業界の内外で活躍する人にインタビューをしに行くという内容だった。

そんなワタナベ氏だが、今は出版社を辞めてニューヨークにいる。

独身貴族を謳歌していた彼はパンデミックの最中に唐突に結婚した。結婚直後にお相手がニューヨーク転勤することになり、「面白そうだから」とワタナベ氏もついていったのだ。

飲み屋街の小さなマンションで暮らしていたのに、今やマンハッタンのど真ん中の高層マンションでアメリカンドリームを叶えた主人公みたいな生活をしている。

そんなワタナベ氏からのメールである。メニューをほっぽり出して、私は早速内容を確認した。

件名は〈お仕事のご相談・ワタナベ〉だった。

要件は実にシンプルだ。

ニューヨークに来て数ヶ月、ニューヨークの観光名所はほとんど回ってしまったし、いつまでも妻のヒモになっているわけにもいかないので、仕事をしようと思う。

働くならやはり、編集の仕事がいい――というわけで私に「何かやらないか?」と依頼してきたというわけだ。

〈了解です。打ち合わせしましょう〉

そんな短い返事を打って、私はニューヨークベイクドチーズケーキを頼んだ。このタイミングでニューヨークにいるワタナベ氏から連絡がきたのも、何かの縁だ。

よくよく考えたら、プレッツェルもニューヨーク名物だし、そもそもここはブルックリンパーラーだし、何を頼んでもワタナベ氏につながるのだけれど。

運ばれてきたチーズケーキは、こんがりと音が聞こえそうなくらい鮮やかなキツネ色だった。ホイップクリームとイチジクのコンポートが添えられている。

ブルックリンパーラーのチーズケーキはチーズの香りが濃かった。口に入れる前からふわりふわりと甘い匂いがする。口の中で溶けて消える淡いチーズケーキではなく、舌にずっしりと食感が残るタイプのチーズケーキだった。

糖分というのは不思議だ。食べると体の中を甘みが巡るのがわかる。脳味噌の一部分――言葉を生み出す部位に一気に駆け上がって、染み込んでいく。

イチジクのコンポートのプチプチとした果肉の食感を楽しみながら、ふと仕事のことを考えた。こうして〆切明けに美味しいものを食べると、何故か大真面目に仕事のことを考えてしまうのだ。

小説家に欠かせないのが編集者という存在だ。

企画の打ち合わせに始まり、取材、プロットのやり取り、書き上がった原稿を読んでもらい、また打ち合わせ、書籍のデザインの打ち合わせ、販売促進の打ち合わせ……本作りのさまざまな工程を、編集者と共に行う。

作品を一緒に作っていく二人三脚の相手でもあるし、作家にとって一番近しい他人でもあるし、頼りになる存在でもあればときどき猛烈に鬱陶しい存在でもある。友人同士のように語らう瞬間もあれば、取引先としてシビアな会話をすることもある。

作家と編集者の関係は複雑で、それゆえに衝突も生むし業務上のトラブルも生む。私も「次会ったら覚えてろよ」と思っている編集者が片手で足りるくらいにはいる。その倍以上、信頼している編集者がいる。

「他社で理不尽にボツにされた企画を持ち込める担当編集が一人、仕事関係なくざっくばらんな話ができる担当編集が一人いると、作家として仕事がしやすいよ」

デビュー直後にそんなアドバイスをくれた先輩作家がいたが、幸運にも私にはどちらの編集者もいる。

ワタナベ氏がどちらかというと、強いて言うなら後者なのだと思う。

「何も決まってないけど、とりあえずまた一緒に面白いことをやりませんか?」と声をかけてくれる編集者は、やはり貴重なのだ。

チーズケーキを食べ、映画を観て、家に帰った。ワタナベ氏との打ち合わせは、その日の午後十時からになった。

Zoomの画面に現れたワタナベ氏の背後には、腹が立つほど青いニューヨークの空があった。窓の向こうに高層ビルが見える。本当にマンハッタンのど真ん中で彼は暮らしていた。

「あ、そうか、そっちは朝なんですね」

『こちらは朝の8時です~』

時差のあるオンライン会議なんて、初めての経験である。

「ワタナベ氏、結局ニューヨークに行っても編集者をやるんですね」

『何があっても編集の仕事は続けていこうと思ってますからね。英語は絶賛勉強中なので、ひとまず日本の出版社とお仕事します。究極のリモートワーカーです。あ、うちのマンション、プールがついてるんですけど写真見ます?』

送られてきたプールの写真は、想像の軽く五倍はアメリカンドリームに満ちていた。

そんな環境で暮らしてなお編集者として働こうというのだから、よほど本を作ることが好きなのだろう。

そういう編集者は信用できるのだと、8年物書きをやってきてつくづく思う。作家としての最初の5年間は、そういう編集者を一人でも多く見つけるための時間だった。

東京にいる日本人の作家と、ニューヨークにいる日本人の編集者が、日本で刊行される本の打ち合わせをZoomでする――何だか不思議な気分だった。

「じゃあ、とりあえず次はどんな面白いことをやりましょうか」

快晴のニューヨークと、夜の東京とで、次の本へ向けた作戦会議をした。

途中、黒子ちゃんがそっと部屋に入ってきて、「シュークリーム、いただきます」と小声で言って去っていった。

外出して一人で美味しいものを食べたら、黒子ちゃんにも何か美味しいものをお土産に買ってくる。私が勝手に作ったルールだった。この共同生活を円満に進めるための秘訣だと思っている。

ワタナベ氏から送られてきた実際の写真

《小説家という仕事とは I am 額賀澪インタビュー》



額賀澪新刊「タスキメシ五輪」

この記事を書いた人

額賀澪
額賀澪小説家
小説家、ときどき大学講師。 青春小説やスポーツ小説をよく書きます。強み:面白いと思ったら何でも小説にしたがること、休みがいらないこと。弱み:小説にしても面白くなさそうなものに興味が湧かないこと。

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