哲学の道はブラック? 哲学修行の第一歩は2500年分の学び直し《哲学者・苫野一徳の哲学入門2》

悩みの答えは、すでに哲学の中にある? 哲学者・苫野一徳さんが語る、「哲学って何?」へのシンプルな答えと、その実践的な学び方。

プロフィール
熊本大学准教授苫野一徳
経済産業省「産業構造審議会」委員、熊本市教育委員のほか、全国の多くの自治体・学校等のアドバイザーを歴任。著書は『親子で哲学対話』『子どもの頃から哲学者』(大和書房)、『勉強するのは何のため?』(日本評論社)、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマー新書)など多数。
「哲学は “思いつきの思想”ではない」−−。哲学者であり、熊本大学で教育学者として教鞭を取る苫野一徳氏の連載第2回は、「そもそも哲学って何?」。
目次
すべての悩みは、哲学が解決していた
人間の悩みは尽きることがない。しかし「人類2500年の歴史で、ほぼすべてのことは考え尽くされている」ということを思い知ったのは、大学院進学後。師である哲学者・竹田青嗣氏に弟子入りし、想像以上に過酷な「哲学の修行」とも呼ぶべき日々をスタートさせてからだ。
「修行はまず、哲学書を時代順に片っ端から読むことから始まりました。プラトンなどの古代ギリシア哲学から、近現代の哲学者たちの主要著作まで。2〜3年で重要な文献はすべて読みました」
読むだけでは終わらない。1冊につき3万〜5万字のレジュメを作成し(当時はまだChatGPTなどの生成AIは影も形もない)、それを竹田氏と一対一で議論する。週1〜2回の議論は1日がかりで行われ、その後は飲み会へ——だが、そこでも議論は終わらない。
「本当に、片時も休むことなく哲学のことだけを考えていました。でも、人類が長い時間をかけて積み重ねてきた“英知”に触れることで、自分が抱える問いに対して“すでに解かれている”こともあるとわかったんです」
哲学によって、信じていたものが木っ端微塵に
実は苫野氏は大学時代、8年にも及ぶ躁うつと他者と分かり合えないという苦しみから、「人類愛」なるものを説き「そこそこの支持を集めて」いたという経歴がある。
「すべての人類が、過去も未来も現在も、愛し合って繋がっている」。そんな強烈な世界観によって支えられていたというが、哲学修行で木っ端微塵に打ち砕かれたという。
「哲学には『欲望相関性の原理』という考え方があります。人間は自らの欲望に相関的に世界を捉える、というものです。私はこの考えを通じて、かつての“人類愛”という思想が、自分の孤独を埋めたいという欲望の産物だったと気づいたんです」
本質を知ること
苫野氏はそれを“幻影”と切り捨てるのではなく、「本質を知ったこと」で乗り越えていく。
「私たちが苦しむとき、その理由の多くは“何に苦しんでいるのかが分からない”ことにあります。でも、自分の問題の“本質”に気づければ、解決の糸口が見えてくる。哲学はそのための思考の道具なんです」
今、SNSや情報メディアでは、“浅く、早く”が求められる時代だ。だが、苫野氏の言葉はそれと真逆の方向を向く。「哲学とは、考えることでしか手に入らない希望だ」と、彼は語る。
師匠・竹田青嗣との共著『伝授! 哲学の極意』(共著:竹田青嗣/河出新書)で、社会課題の解決に哲学的アプローチを試みている。
文/長谷川恵子
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この記事を書いた人

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- 猫と食べることが大好き。将来は猫カフェを作りたい(本気)。書籍編集者歴が長い。強み:思い付きで行動できる。勝手に人のプロデュースをしたり、コンサルティングをする癖がある。弱み:数字に弱い。おおざっぱなので細かい作業が苦手。