進路に迷い、呪縛に苦しんだ中学・高校時代 抽象画家・銀ソーダインタビュー第1話
福岡県出身の若手抽象画家。記憶と時間をテーマに「銀ソーダブルー」と呼ばれる青を基調とした作品を制作し、国内外で活動している。しかし、ここに至るまでには大きな苦しみが……。学校生活や進路に迷っていた10代の頃を語ります。
プロフィール
抽象画家銀ソーダ
こんにちは。I am編集部の橘田です。
今回は抽象画家の銀ソーダさんにインタビューさせていただきました。
銀ソーダさんは福岡県出身の若手抽象画家。記憶と時間をテーマに「銀ソーダブルー」と呼ばれる青を基調とした抽象画作品を制作し、東京・福岡を中心に個展などを行っています。
制作拠点は福岡県箱崎の銭湯跡地・大學湯。大學湯は昭和7年創業で2012年まで80年間地元で愛されてきた銭湯です。建物を保存・利活用するためのプロジェクトでは、クラウドファンディングで銭湯の修繕費用として600万円を達成。
絵が大好きだったにもかかわらず 高校受験で、「芸術で生きていくのは大変だし、もっと安定した道を選んだほうがいいのかもしれない」と地元の進学校を選び、やりたいことができない環境に苦しんで絵を描く気力すら失ってしまった過去も。
それでも自分のやりたいことは芸術だと挫折から立ち上がり、アーティストとして笑顔で精力的に活動されている、そのエネルギーはどこから来るのか、伺いました。
全2話、後編はこちらからどうぞ。
目次
保育園の頃から「絵で生きていきたい」と思っていた
「絵で生きていきたい」と思ったのは、保育園の頃からです。物心つく前から絵を描くことが大好きでした。シングルマザーでトリプルワークをしていた母と過ごす限られた時間の中で、描いた絵を見せると母はいつも褒めてくれました。保育園でも描いた絵を先生や友達に褒められて嬉しかった。絵を描いて、人に認められることが幼心に嬉しくて、「表現をすることっていいな」と思うようになりました。
小学生になってからはイラストレーションや漫画も描くようになって、自分の漫画をクラスの人たちに見せることもありました。そんな生活の中で、絵で生きていきたいという夢がどんどん広がっていきました。
でも、今でこそ明るくアーティストとして活動していますが、決してすんなりと芸術の道に進んだわけではなかったんです。
「いい子でいなきゃ」という呪縛
高校受験で進路を考えるとき、芸術を学べる高校に行きたいという想いはありました。でも、母が朝から晩まで働いている姿を見ていたので、お金かかる学校にはできるだけ進まず、勉強を頑張って公立高校に行って、親孝行をしたいとも思っていました。
進路相談で、先生が芸術科のある高校を片っ端から探してくれて、すごく嬉しかった。一方で、絵で食べていくのは大変だから、普通の高校に行って、それでも絵をやりたければ芸術の大学に進んだらいいとアドバイスをくれる人もいました。当時は今ほど自信もなくて、「芸術で生きていくんだ!」というはっきりとした思いがなかったから、ひとまず公立高校に行くことにしました。勉強をひたすら頑張って、公立高校の進学校に入学したのです。
美術の授業すらない勉強漬けの高校
高校では、朝から晩まで勉強漬けの日々でした。しかも美術の授業が全くなかったのです。受験するときからわかっていたんですけどね(笑)
高校生になっても、画家になりたいという想いは変わっていませんでした。だから、勉強漬けの日々の中で、本当は絵を描きたいはずなのに何してるんだろうなって凄く葛藤していました。私には画家という夢があるのに、画家になるための展示活動もできず、果たしてこのままで画家になれるのかなって。次第に勉強に身が入らなくなってしまいました。
決して絵を描いていなかったわけではないんです。高校には美術の授業はなかったけれど、美術の同好会は存在していたので、放課後はそこで絵を描いていました。でも、周りのみんなは勉強の息抜きで絵を描きたい子が多くて、私は画家になるためにガツガツしていたから周りとのギャップが苦しかった。同じ想いの仲間がいなかったんです。最初は「なんで皆もっと真剣に取り組まないのかな」と思っていました。「みんなコンペに出して、賞を取って、頑張ろうよ!」って勝手に私が盛り上がっていました。今思えばそれは人に押し付けることじゃないなってわかるんですけどね。でも私は切磋琢磨できるような環境に行きたかったと気づかされました。
一方で学校で勉強を頑張って、いい大学に入って就職する…そんな「安定」した生き方をしたほうがいいんじゃないかと思う自分とも戦っていました。
でも、それだと苦しい自分がいたんですよね。やりたいことができない環境にいることに、生きた心地がしなかったんです。
学校に行けず、絵を描くこともできなくなった
高校3年生の頃、自律神経失調症になりました。
高校生活で唯一楽しかったことが体育祭でバックボードに絵を描くことだったんです。体育祭が終わると高校3年生は本格的に受験モードに入っていくのですが、高校3年生の体育祭が終わった時、心の中が空っぽになってしまったんです。
学校の進路相談で芸術を学べる大学に行きたいと話しても、先生に共感してもらえませんでした。通じ合える先生がいなかったんですよね。芸術じゃない違う分野の大学を勧められることもありました。当時は子供だったから、どうしてわかってくれないんだって思っていました。
それから学校に行きたくなくなってしまいました。成績はどんどん悪くなり、勉強に向き合えば向き合うほど、ボロボロな自分と向き合うことになる。そんな自分から逃げたくなってしまったんです。
周りの受験勉強の流れに乗るのは無理でした。「だって描くの好きだもん」と思っていました。でも学校ではだれもその想いを肯定してもらえず、自分が間違っているのかなと考えるように。「生きている意味がないのかな」、「自分は必要とされていないのかな」って、どんどん暗くなっていきました。
高校3年生の体育祭終了後、いよいよ大学受験に向けて勉強しないといけないタイミングでめまいがとまらなくなって、絵を描く気力もなくなってしまいました。家に引きこもって布団の中で生きるのが嫌だ、生きていてもお金がかかるだけだと、マイナスなことをずっと考えていました。
「生んでしまってごめんね」忘れられない母の涙
いよいよ私の状態もおかしくなり、母と面と向かって話し合うことになったんです。母と本気で向き合った時間が、私が前に進む大切なきっかけになりました。
母は、「やりたいことやり?」と言ってくれました。そして、「あなたを生んで嬉しかったよ。でもあなたが今そんなに苦しんで生きたくないと思っているんだったら、生んでしまってごめんね」って泣きながら言ったんです。その言葉を聞いたときにはっとしました。私は大事な母に何を言わせているんだと。私は自分のことしか考えていなかった、母がどんな思いで私を生んでくれたのか考えていなかったと気が付いたんです。
母は昔から、やりたいことに挑戦しなさいって言ってくれていました。本当の親孝行は、お金がかからない進路を選ぶことではなくて、私が一生懸命いきいきと過ごしている姿を見せることだったんです。今思えば当時はプライドが高くて、周りから見られる自分のことを気にしていました。勉強ができたほうが選択肢は広がるとか、いい子でいなきゃと思って、勝手に自分の首を絞めていたんです。
せっかく生んでもらった命、自分のやりたいことを一生懸命やってみようと思った時に、「私は絵を描きたいと思っていた」と気が付きました。もう一度再スタートしようと決めてから、暗く落ち込んでいた日々が上向いていきました。
ただ、当時の私はズタボロで勉強もできない状態でした。全国に芸術大学はいっぱいありますが、到底今からは間に合わなかったんです。でも、少し珍しいのですが、九州産業大学のデザイン学科はデッサン無しで学科試験で受けることができたんです。それならば今の自分にもトライできると思って、私は理系だったので、学科試験で数学を選んで受けました。
大学入学してからは、本当楽しくて。やっと芸術を学べることが嬉しかった。そこから回復していきました。
今思えば、ほとんど芸術がない環境で3年間過ごしたからこそ、自分がやりたいことは芸術なのだと気が付くことができたんだと思います。この挫折を経験したことで、一生懸命生きようと思いました。
取材・文/I am 編集部
写真/本人提供