額賀澪のメシノタネ小説家と激辛湖南料理――“好きな仕事”に健康をやられたら
小説家・額賀澪が「好きなことを仕事にする人たち」にフォーカスして書き下ろすエッセイ「メシノタネ」。#04のテーマは「好きを仕事にするフリーランスの健康事情」。「代わりのいない仕事」をする人たちに欠かせない健康管理術。体調不良に陥る前にやるべきことは殺菌だった!?
「あ、これはまずい。確実に風邪を引く」
明日必着で〆切が設定されているゲラを封筒に詰め、担当編集に「あとは頼んだ」と一筆書いて同封したところで、じわじわと風邪を引いていく感覚がした。
ちなみにゲラとは、原稿を本の形にレイアウトしたもので、正式名称はゲラ刷りという。
原稿を書き上げ、改稿に改稿を重ね、担当からOKが出て無事入稿となると、何百枚とプリントされたゲラの束が送られてくる。これに赤ペンでさらに修正指示を入れていくことを「赤入れ」というのだが、どれだけ入稿前に入念にチェックしても、この段階で大量の「赤」が入ってしまう。
この日、私は一週間がかりのゲラチェックを終えたわけだが――本当に、人間の体はよくできている。
「今、風邪を引いたら〆切に間に合わない」というときは気合いで健康を保ち、ちゃんと〆切をクリアしてから「そろそろいいっすかね」とちゃんと体調不良を起こすのだ。
私の体調はまさに「はい、今から崩れまーす」という状態だった。
さて、こういうときは辛いものを食べるに限る。
「黒子ちゃん、ゲラを出しに行くついでに、風邪を吹き飛ばすための激辛料理でも一緒に食べに……」
黒子ちゃんの部屋のドアをノックして声をかけたが、喰い気味に「行かないですよ」と返ってきた。黒子ちゃんは辛いものが嫌いなのだ。
「風邪を引いたなら、お粥かうどんにしときなさい」
「馬鹿野郎、そんなやわやわしたもんで風邪が治ると思ってんのか」
ちなみに、額賀家は風邪を引いたらカレーや牛丼を食べさせられる家だった。胃への優しさなんて二の次。胃もたれを起こしてでも栄養があるものを食べるのだ。
というわけで、近所のコンビニでゲラを発送した私は、辛いものを求めて電車に乗った。一緒に辛いものを食べてくれそうな知人に連絡を入れた。
向かったのは新宿歌舞伎町にある湖南菜館だ。中国八大料理の一つ、湖南料理の店である。出てくる料理のほとんどがとにかく辛くて、酸っぱくて、猛烈に赤い。
「額賀さん、これは大変です。見てください、この牛肉の麻辣煮。胃袋が焼き焦げそうな色してます」
「何言ってるんですか部長、この赤いので体を内側から殺菌するんですよ。米びつも虫がわかないように唐辛子を入れるでしょう」
「なるほど!」
新刊が無事発売になったからと私の誘いに応じてくれたのは、吹奏楽作家のオザワ部長である。(恐らく)世界でただ一人の、吹奏楽を専門とした物書きだ。コンクールやコンサートの取材記事はもちろん、吹奏楽を題材にした小説まで書いている。オザワ部長というペンネームだが、別にどこかの会社の部長というわけではない。さかなクン的なノリでオザワ部長と呼んでいいらしい。
私のデビュー作の題材が吹奏楽だったことをきっかけに知り合ったのだが、今では定期的に「パクチーを摂取する会」を開催している(吹奏楽も好きだがパクチーも好きな二人なのだ)。パクチーが入っている料理はたいてい辛いから、辛い料理にも付き合ってもらえると考えたわけだ。
「額賀さんは殺菌と言いましたが、辛いものってストレス解消にもなりますよね。疲れて苛立ってるときこそ、徹底的に自分をいじめたくなるんでしょうか」
牛肉の麻辣煮を恐る恐る口に運んだオザワ部長は、「あ、これはダメだ」と呟いて天井を仰いだ。
麻辣煮はとても辛かった。赤いスープでたぷたぷになった器に、真っ赤に煮込まれた牛肉。すでに周辺の空気が辛い。一口食べても辛い。油断するとすぐ気管に入ってくるタイプの辛さだ。
「あー……これはダメですね」
なんて言いつつ、私も部長も箸は止めない。「ダメダメ~」「からーい」と言いながら、ときどき咽せながら、柔らかく煮込まれた牛肉を口に運ぶ。
不思議なもので、いつの間にか辛さは鎮まり、牛肉や、一緒に煮込まれた野菜の甘みがはっきりわかるようになる。
それに合わせ、体の中に確かにあった風邪が、唐辛子の辛味に焼かれて小さくなっていく。
麻辣煮と一緒に頼んだ魚の酸辣煮は、色こそ赤くないが辛くて酸っぱい。白身魚は柔らかく舌触りが優しい。舌が唐辛子にやられているから、酸味がピリピリと染みた。これもきっと殺菌効果がある。弁当が痛まないように梅干しを入れるのと一緒だ、きっと。
「治った、これは風邪も治った!」
「それはよかった。僕らの仕事は健康第一ですから」
私もオザワ部長もフリーランスだから、その気になればいくらでも仕事ができてしまう。自分の裁量で睡眠時間を削り、休みを取らず、ひたすら働き続ければいい。
「確かに、自分の健康にいかに気を配るかって、思った以上に大事ですよね。特にいい歳したフリーランスは」
〆切明けに風邪を吹き飛ばすために辛いものを食べる。それも、美味しい辛いものを。これはもう、大真面目に仕事について考えてしまう流れだ。
それが仕事と健康の話題となれば、なおさらだ。
「体調を崩して休んだら飛ぶじゃないですか、仕事が。私やオザワ部長みたいなフリーランスは、特に」
「まあ、それがフリーランスというものですからね。社員が一人しかいない会社というか」
まともな会社なら、風邪を引いて休むとなっても誰かに仕事を引き継ぐことができる。「今日中にどうしてもやらないと!」という案件があっても、引き受けてくれる同僚や上司がいる。
しかし、フリーランスにはそれがないわけで。
「そうなんですよね。私が途中まで書いた小説を『代わりに書いて』と他の作家に引き継ぐことはできないんですよ」
吹奏楽作家であるオザワ部長には「オザワ部長だから書いてほしい」という執筆依頼が多いから、「間に合いそうにないんで他の人に……」というわけにもいかない。
自分が休んでしまったら、仕事が飛ぶ。企画がぽしゃる。だから多少の体調不良でも無理をしてしまう。ずるずる働いてしまう。
さらに恐ろしいことに、フリーランスの健康問題は、そのままメンタルの不良にも直結する。
何故ならフリーランスの「休む」は「その分の収入が減る」ということだから。有給なんてものはフリーランスにはないのである。「よし、休むことに専念しよう」と腹を決めたとして、収入面の不安、将来の不安が頭をぐるぐるして……体だけでなくメンタルもぐったりしてしまうわけだ。
だからこそ、ダメになる前に対策をする必要があるのだとつくづく思う。
というのも、私も昨年の秋に酷い腰痛を起こし、ヘルニア一歩手前だと診断された。幸い、仕事ができないレベルの痛みではなかったのだが、もし椅子にも座れないような重傷だったら、今年のスケジュールはめちゃくちゃになっていたはずだ。もちろん、収入もガクッと減ったことだろう。
取り返しのつかない体調不良に陥る前に、ほどほどに自分の健康を気遣って、仕事を続けられる状態をキープする。これもまた、フリーランスに欠かせないことなのだと思う。
「よし、まだまだ殺菌しましょう」
そう言って、私は激辛よだれ鶏とカリフラワーの干鍋を頼んだ。
よだれ鶏は思った通り真っ赤なタレに浮かんでいて、干鍋は唐辛子がゴロゴロと入っていた。どちらも辛い。だが美味い。体から疲労と体調不良が追い出されていく。
オザワ部長と体の中をしっかり殺菌したのち、次は山盛りのパクチーを食べる約束をして別れた。黒子ちゃんにはドーナツをお土産に買って帰った。
《小説家という仕事とは I am 額賀澪インタビュー》
額賀澪新刊「転職の魔王様」
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この記事を書いた人
- 小説家、ときどき大学講師。 青春小説やスポーツ小説をよく書きます。強み:面白いと思ったら何でも小説にしたがること、休みがいらないこと。弱み:小説にしても面白くなさそうなものに興味が湧かないこと。
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