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人生を変えるI amな本スマナサーラ長老が教える、不安・心配という感情を和らげる考え方

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少しの自己投資で人生を変える読書術。今回はアルボムッレ・スマナサーラさんの『心配しないこと』(大和書房)を紹介。

われわれはみな、職場にいれば仕事のことで不安になり、家にいたら家族のことで不安になり、暇なときは未来のことで漠然と不安を感じます。


四六時中つきまとう影のように存在する不安の正体は何でしょうか? また不安から逃れるすべはあるのでしょうか?

他人と比較するから不安が生まれる

写真/Canva

仏教の視点では、不安の原因は煩悩の 1 つである「慢(まん)」なのだそうです。慢は、パーリ語の「マーナ」を語源とし、日本語に訳せば「測る」という意味になります。


何を測るのかといえば、自分と他者。“「私とはいったい何者なのか?」と知るために、自分と他人を比較して測ろうとする心の働きが慢です。”―こう説明するのは、 スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)のアルボムッレ・スマナサーラ長老です。


スマナサーラ長老は、著書『心配しないこと』(大和書房)の中で、次のように説明を続けます。

では、人は自分と誰を比べているのでしょうか? それは自分が会った人すべてです。私たちは、常に出会った人と自分とを測っています。だから、とても大変なのです。会う人会う人すべてを測るので、きりがなく、終わりがありません。顔と顔を合わせて会った人だけではなく、テレビで観ただけの人、SNS 上で出会った人ともハカリを使って自分と比べています。(本書 33p より)

この比べるという心のはたらき、つまり慢は、終始心の中で休むことなく回転しています。
そのたびに、自分よりも優れている、自分と同じくらい、あるいは自分よりも劣っているとレッテル貼りするのです。


では、なぜ慢があるのでしょうか?


それは私たち、一人ひとりに「自我意識」が存在しているからだと、スマナサーラ長老は本書の中で記しています。その自我を確立したいがために、他人と比較して測ることで、「私はこういうものだ」と規定したいのです。


ところが、測る対象は不特定多数で限りがなく、測るたびに自我の価値が変わってしまいます。そのせいで、「限りない自我の不安」にさいなまされるのだそうです。

無明と慢の働きで危険な暴走が起こる

写真/Canva

スマナサーラ長老によれば、漫は不安をもたらすだけでなく、他者に迷惑や危害を与えるほど、暴走することもあるそうです。


これにはもう一つの煩悩である「無明(むみょう)」が関わってきます。こちらについても、本書の説明を引き写しましょう。

無明はパーリ語で「avijjā(アビッジャー)」といって、「無智」とも訳されます。簡単にいえば、「因果法則がわからない」「真理を知らない」ということ。この「わからない」「知らない」という煩悩が、慢の土台になっているのです。
慢は無明の子どもであり、無明は慢の母親なのです。無明と慢は親子で、仲良しのペアです。
だから、この二人はいつも一緒に行動をします。(本書 117p より)

漫と無明のペアの働きを示す例として、人間同士のケンカが挙げられています。一方が相手にバカにされ、プライドが傷つけられることで、ケンカが始まります。プライドが傷つくと感じるのは慢です。この時に無明が「強く」なるのです。強くなった無明が「相手を倒せ」と指示を出し、怒りや憎しみが引き起こされて、ケンカに至るのだそうです。


さらには、慢の兄弟のような存在として「欲」があるとも。欲は常に心の中にくすぶっている感情で、「他の存在と比較し始めると、欲に満たされた心の中に慢が現れてくる」という間柄です。スマナサーラ長老は、「慢と欲は兄弟、無明を母とする煩悩家族」と表現します。

成長を目指す原動力となる慢は悪くない

生きるに当たって、とても厄介な慢ですが、これをなくすことはできるのでしょうか?


スマナサーラ長老によれば、慢は煩悩であるとともに「本能」でもあり、「悟りの最終段階である阿羅漢果(あらかんか)に達するまで、慢は消えない」とします。つまり、われわれは、(現世で解脱を目指すのでない限り)慢と生涯にわたり付き合っていかねばならないわけです。


ですが、慢は、世俗のレベルでは必ずしも悪いものではないとも、スマナサーラ長老は説きます。この点について、次の説明があります。

人格を向上させるために、感情ではなく理性によって自他を測ることはかまいません。「自分を育て、立派なよい人間に成長したい」と思うなら、比較することも必要です。人格的に立派な人をモデルにして、自分もそれに向かって精進するのもよいことです。
理性を使って自他を測り、「自分はこのままではダメだ。努力して向上しなくてはいけない」と心を育てるならば、慢は悪いものとはいえないでしょう。(本書 60p より)

ここで「理性」という言葉が出てきましたが、これもキーワードの一つです。慢と違って、理性は本能ではないそうです。これは、幼い頃は親のしつけ、長じて学校でのしつけ、そして社会人としての学びによって、後天的に育てるものです。理性が「育てば育つほど、感情に流されることが減り、間違いが少なくなる」とスマナサーラ長老は強調します。

不安・心配は一概に悪いとはいえない

さて、不安や心配という厄介な感情の話に立ち戻りましょう。心の内に不安や心配が湧き起こると、それが邪魔で消してしまいたいという気持ちになりますね。


スマナサーラ長老は、不安・心配は「一概に悪いというわけではありません」と語っています。むしろこれがあるから、生きていけるという側面があるのです。

人は食事をしなければ生きていけませんから、空腹になれば食事の心配をします。仕事をサボりたくても「何もしなければごはんが食べられない」「家賃が払えなくなる」といった不安がまさって仕事を頑張ったりします。不安や心配に飲み込まれてしまうのはよくありませんが、不安や心配が悪ということはないのです。(本書 182p より)

同時に、過剰な不安や心配を抑えるコツについても教えています。それは、「他人ではなく自分を観察する」こと。誰かに何かを言われて、怒りを覚えたとき、その感情をもたらした相手のせいにしがちです。ですが実際は、その感情の原因は自分自身にあるのです。他人を観察して「あの人が悪い」と判断し、自己を正当化するからです。


そもそも、他人の感情や言動を「制御」することはできません。そうしようとするのは、「桁違いの傲慢」だと言います。代わりに自分を観察し、制御することはできます。これに努めれば、不安や心配、感情の暴走の危険は少なくなっていくと、スマナサーラ長老は述べています。


最後に、スマナサーラ長老の言葉をもう一つ。他人だけでなく、自分の「未来」のことも管轄外なのです。なんとなく予想することはできるでしょうが、それをどうこうと制御することはできません。だからスマナサーラ長老は、こう説きます―「私たちにできることは、今日をどう生きるか、今何をするかだけ」だと。この真実を腹落ちさせるだけでも、不安や心配がぐっと小さくなるはずです。本書には、こうした箴言が数多く綴られています。読み解きながら、できることから始めてみるとよいでしょう。

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この記事を書いた人

鈴木 拓也
鈴木 拓也
都内出版社などでの勤務を経て、北海道の老舗翻訳会社で15年間役員を務める。次期社長になるのが嫌だったのと、寒い土地が苦手で、スピンオフしてフリーランスライターに転向。最近は写真撮影に目覚め、そちらの道も模索する日々を送る。

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