銭湯跡地・大學湯を拠点にアート活動 抽象画家・銀ソーダインタビュー第2話
高校時代の挫折を経て、大学より芸術活動を本格スタート。記憶と時間をテーマに、ブルーを基調とした抽象画をつくっている。現在の活躍に至るまで、どのようにして繋がりを作り、活躍の場を広げていったのか……。話をうかがいました。
プロフィール
抽象画家銀ソーダ
こんにちは、I am編集部の橘田です。
抽象画家の銀ソーダさんに、インタビューをさせていただきました。
銀ソーダさんは福岡県出身の若手抽象画家。記憶と時間をテーマに「銀ソーダブルー」と呼ばれる青を基調とした抽象画作品を制作し、東京・福岡を中心に個展などを行っています。
幼い頃から芸術で生きていきたいと夢見ていた銀ソーダさんは、高校で美術の授業がない進学校に進みます。3年間芸術がほとんどない環境で、やりたいことができず生きた心地がしなかった。そのうち、大好きな絵も描けなくなってしまいます。それでも挫折から立ち上がり、アーティストになるため歩き始めた銀ソーダさん。現在の活躍に至るまで、どのようにして繋がりを作り、活躍の場を広げていったのか、その歩みを伺ってきました。
全2話、前編はこちらからどうぞ。
目次
大学時代、東京のギャラリーから出展のオファー
大学へ入ってからは、学内にギャラリーがあったので、積極的にグループ展を企画していました。でも、アーティストになりたいのであれば外の世界も知りたいと思って、地元の福岡のギャラリーや企画展示の公募にも積極的に展示してどんどん輪を広げていきました。
最初に展示会で絵が売れたときは、誰が買ってくださったのかはわからないのですが、「必要としてくれる人がいるんだ!」と嬉しかったです。でもその頃は自分の絵の値段のつけ方もわからなかったんですよね。その後福岡のギャラリーの企画展に出展して、現役の作家さんと触れ合ううちに、値段の付け方など、必要なことを学んでいきました。
次は東京だと思って準備をしていた時に、ネットに載せていた作品を見た東京のギャラリーさんから「ギャラリー展示してみませんか?」とオファーをいただきました。「出したいです。よろしくお願いします」と言ってすぐ展示をすることに決めました。せっかくギャラリーに出すなら、ただ作品だけを出すんじゃなくて、自分も行きたいと思い2泊3日で東京へ。作品はこれから変わっていくし、伸びしろもあると思うんです。だから今の作品は評価されなくても、やる気や姿勢は伝えたくて。福岡で作家さんとの関係を築いてきたのと同じように、東京へも実際に足を運ばないと広がりはないと思ったのです。自腹でしたが先行投資だと思って行きました。
東京に行ったら刺激が沢山。展示されている様々な作家さんからお話を聞いて、その姿勢を学びました。また、コレクターさんやギャラリーの方とも触れ合うきっかけになりました。その時の交流をきっかけに、「うちでも展示してみませんか」と次のオファーに発展して。作品をギャラリーで取り扱っていただけるようになっていきました。
卒業後、就職という考えは全くなかった
卒業後の進路を考える時、就職という考えは全くありませんでした。デザイン学科だったため、周りはほとんど就職でしたが、絵を描く環境ではなかった高校時代に苦しんだ期間があったから、どうしても会社に勤めるようなイメージができなかったんですよね。多分続かないだろうなと。それなら、画家を目指すとビシッと決めようと思いました。
学生時代、大学内のキャリア支援センターで進路について面談をする機会ありました。キャリア支援センターに行くと、今はわからないですが、入口に「正社員で稼ぐ生涯年収」と「フリーターで稼ぐ生涯年収」を札束で表したレプリカがあるんです。面談でも生涯年収の話をされて就職を勧められましたが、揺れることは全くありませんでした。フリーターだって、やり方次第では正社員の方の生涯年収を超すことだって可能じゃないですか。その方が可能性を秘めていると私には思えたんですよね。だから、「やってみないとわからないじゃないですか」って伝えました。私が意思を貫き通したので、担当の方は「そうですか」と言ってもう話は終わりました。
親戚からも、「早くお母さん楽にさせてあげないと」とか「夢はいつまでも見てられないよ」って言われることもありましたが、目指したこともない人に言われてもな……と思っていたし、「やってみないと分からないじゃないですか」と言い返していました。やりもしないであきらめたくなかった。言われれば言われるほど、それをガソリンにして燃えていました。
不安はもちろんありました。でも、なんとなく人生の時間を過ごす方が嫌だった。生きるのが嫌だ、生きることがつらいと思った時期があったからこそ、不安があっても自分のやりたいことを貫こうと強く思いました。それで苦しんでも自分の選択だから思う存分苦しめばいいと思ったんです。
お金の面では自転車操業の日々
大学卒業してアーティストになってからは、お金の面では自転車操業です。
新しいことをするのが大好きですし、自分の活動舞台が広がるにつれて、日本だけじゃなくて世界を意識するようになりました。地球は日本だけじゃないですから。でも、海外進出となるとそれなりにお金がかかってくるんですよね。
私はなるべく展示会では在廊したいと考えています。そうすると交通費や作品の運搬費もかかってきますが、今出展できているのは自分が足を運んだから広がったご縁がほとんどなんですよね。
1回の展示で作品に出会いがあるかどうかわからないけれど、絶対に自分の作品を求めている人は、世界中のどこかに1人ぐらいはいる。その人たちに出会いたいんです。作品は人間より長く残りますが、自分自身は命に限りがあるので、生きているうちにしか直接的なコミュニケーションってできないなと思って、なるべく在廊するようにしています。
銭湯跡地「大學湯」を拠点に、コロナ禍でも歩みを止めず芸術を届ける
コロナ禍では、はじめはどうしたらいいのかわからなかったのですが、こんな時だからこそ歩みを止めるわけにはいかないと思って、1回目の緊急事態宣言後に東京で個展をさせていただきました。
正直、ほとんど人は来なかったんですけど、芸術が心の栄養として必要だと思って来てくださる方がいたんです。一人でもそういう方がいる限りは、私は表現をし続けようと思いました。
ギャラリーでの展示は中止になるところもあったんですけど、私には銭湯跡地「大學湯」というアトリエの拠点があったので、コロナ対策にはとても気を付けながら自分で展示したりアトリエを開放していました。
大學湯は、私が親子3代で通っていた銭湯で、廃業して9年になります。昭和7年創業で、オーナーが建物を残したいという想いから、保存・利活用プロフェクトを行っています。
私は、アーティストを目指しながらも、それを自分だけの表現で完結するのではなく、自分の表現をもとに地元に対して何かしたいという夢があったんです。それは遠い未来のことだと思っていたんですけど、縁あって大學湯のプロジェクトに携わらせてもらいました。
表現をするなら社会に何かを考えるきっかけを与えられるような作家になりたいんです。自分の作品や活動を通じて、誰かが刺激を受けて化学反応が起きていたらいいなと思っています。
2021年5月に大學湯の修繕費のためのクラウドファンディングを行いました。最初は集まらなかったらどうしようって凄く不安でした。目標額は600万円。私の作品もリターンの一部に入っているので責任重大だなと思っていました。結果は目標を上回る624万1千円を達成。クラウドファンディングでの温かい支援を通じて、今まで着々と積み重ねてきたものが活かされているんだなと実感しました。これから修繕工事に入るのですが、修繕後は私だけじゃなくていろんな方にいろんなアイデアで使っていただきたいなと思っています。
色々なことに挑戦すると学びが大きくて凄く楽しいです。自分のやりたいことを活かせるというのは凄くやりがいがあります。
芸術は数字では終わらない世界で、凄く奥深いなと思いますし、楽しいです。私がやりたかったことはこれだって本当に思います。
今は。挫折を早いうちに経験してよかったなって思っています。高校時代の3年間は私にとって必要な時間でした。おかげで今もぶれない軸ができています。
だから一度挫折を経験することも大事だと思っています。苦しい時こそ大きな気づきがありますから。私は苦しい時は常に、私の人生これでいいのかと自分に問いかけています。 自分で選択して、やりたいことをやるからこそ、苦しい時も踏ん張れるんです。
全2話、前編はこちらからどうぞ。
取材・文/I am 編集部
写真/本人提供