「仕事ができない人は価値がない」と信じ込んでいたがんサバイバー・勅使川原真衣が語る、能力主義からの解放

バリキャリワーキングマザーだった勅使川原真衣さん。乳がん告知は、彼女の人生観や働き方を180度転換させる「強制終了」だった。そこから見出した「能力主義」の限界とは。
慶應義塾大学、東京大学大学院を修了後、外資系コンサルティングファームで活躍し、「能力主義」のあり方を問い直す論客として多くの著書を執筆してきた勅使川原真衣氏。その華々しい経歴の裏側で、彼女は「できない人には価値がない」という強迫観念に苦しんでいた。心身ともに限界を迎えた彼女の人生に、乳がんという突然の出来事が降りかかる。それは、彼女の生き方を根本から変える転機となった。
インタビューは、『後悔しない がんの病院と名医の探し方』(大和書房)を上梓したばかりの医療コンサルタントであり、がん患者のためのポータルサイト「イシュラン」を運営する鈴木英介氏が務める。
目次
馬車馬のように働く日々「ああ、ようやく休める」
Q. 「がん」の告知を受けたとき、どんなお気持ちでしたか?
そうですね、ショックと安心、この2つの感情が入り混じっていました。
自覚としては、「ああ、これでようやく休めるな」という安心感の方が大きかったんです。当時、身体がすごくしんどくて、「こんなに生きるのって大変だったっけ?」と思っていたので、病名が分かって「答え合わせができた」ような気持ちもありました。
でも、自覚はなかったものの、気が動転していたのは確かです。クリニックまで車で行ったのですが、告知後に駐車場を出る時に思いっきり、車をポールにぶつけてしまって。中から医師や看護師たちが出てきて「大丈夫?置いて帰った方がいいんじゃない?」と言われたくらいでした。いろんなメディアのインタビューでは「落ち着いていました」と答えていますが、本当はかなり動転していたんだと思います。
Q. 確かに、その状況で車の運転は大変だったでしょうね。告知を受けてから治療が始まるまでの間は、病気をどのように受け止めていましたか?
たまたま良い病院にかかることができて、そちらが聖路加国際病院を紹介してくれたんです。聖路加は患者を安心させる病院で、乳がんは治療法が確立しているので、それに乗っていけばいいという説明を受けました。
だから、「もう生きるしかないから、やるしかない」という感覚でしたね。非科学的な治療にまた行くわけにはいかないですし、標準治療しかないと覚悟を決めていました。
Q. 告知を機に、働き方や人生観は変わりましたか?
はい、大きく変わりました。それまでは、自分の主観を大事にするという経験がなかったんです。痛めつけて、自分で鞭を打ってなんとかするという方法しか知らなかった。
「頭が良くないから、一生懸命働かなきゃ」と、馬車馬のように働いていました。寝ない上司の元で、それが当たり前だと信じ込んでいたんです。独立して自分で選べるようになってからも、「自分はそんな選べるような立場ではない」と思い込んでいました。
Q. 勅使川原さんのキャリアを考えたら、そこまで自分を落とさなくても大丈夫と感じてしまいますが…
能力の自己評価って、絶対評価じゃないんですよね。周りと比べ、常に相対評価。そうなると、周りをすこぶる優秀な人に囲まれると、自信を持つどころか、自己嫌悪の毎日。私は圧倒的に落ちこぼれでしたから、人の何倍も努力して、常に能力を高め続けないといけない。おちおち寝ている場合じゃない。そんな状況でした。
Q. その「能力主義」に追い立てられるような働き方から、なぜ転換できたのでしょうか?
病気の経験が「180度、生き方を変えるきっかけ」になりました。「自分より大事なものはない」と初めて思ったんです。しかもそれは、自分自身でしか守れないんだと気づきました。
これまでの私は、「できない人には価値がない」という能力主義に凝り固まっていて、本音が吐けませんでした。弱みを見せられないから、誰にも言えない占い師のところに行ったりしていたんです。そして、乳がんの発見を大幅に遅らせることになったスピチュアル整体にものめり込んだんです。
今振り返ると、「長くは続かないよ」と当時の自分に言ってあげたいですね。無理はたたる、当たり前の摂理です。当時は「無理をしてでも能力で貢献しなければ、使えないやつだ」と思っていました。でも、今気づいたのは、能力ではなくて、「持ち味がはまるクライアントはいて、持ち味同士がはまれば、何てことなく仕事はできる」ということです。
Q. 治療と育児、仕事はどのように続けたのでしょうか?
当時、病気がわかってから2年間は文京区で暮らしていました。しかし、熱中症で倒れたり、肺気胸に1年で3度なったりとさすがに大変になり、横浜に帰って実家の近くで暮らすことにしました。それまではいろいろあって疎遠だった実家の両親が全身全霊で迎えてくれ、入院中なども全面的に助けてもらいました。中高時代の友人が毎週、雨の日も雪の日もごはんを届けてくれたり、本当に周りが生かしてくれました。
仕事は、スキンヘッドの状態でも続けていました。正直なところ、もし仕事がなくなってしまったらどうしようという不安はありました。でも、当時のクライアントは、「実際にワークできなくてもいいから」と、1年分の報酬を前金で払ってくれたんです。本当に、足向けて寝られないなと思います。
Q. それは大変ありがたい話ですね。病気の経験は、仕事のアウトプットへの考え方にも影響を与えましたか?
はい、大きく変わりました。無理をして分かりやすい成果を残そうとは思わなくなりました。組織開発はプロセスなので、「クライアントが動くきっかけを作るのが自分の役割」だと再定義しました。
以前のように「自分がなんとかしなきゃ」とスライドを山のように作って頑張るような働き方はもうしていません。今では「それ求めるなら、もっといい人いっぱいいるんで」と正直に言えるようになりました。「お客さんができないけど、私は楽々できること」を仕事にしているから、お客さんも喜んでくれますし、自分自身も仕事がしやすくなりました。
能力ではなく、「持ち味がはまるクライアントはいて、持ち味同士がはまれば、何てことなく仕事はできる」という、人生の相性を学んだのだと思います。
文/長谷川恵子
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- 猫と食べることが大好き。将来は猫カフェを作りたい(本気)。書籍編集者歴が長い。強み:思い付きで行動できる。勝手に人のプロデュースをしたり、コンサルティングをする癖がある。弱み:数字に弱い。おおざっぱなので細かい作業が苦手。
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